昭和44年12月27日 朝のご理解


 「御神訓」

 今朝からご理解を頂こうと思いましてから、教典を開かせて頂きましたら、「神訓」というここんところを頂くのです。まあ、ここんところを頂かせてもろうて、昨夜昨日から、今朝へかけて、色々、思い当たらせて頂く事がございますので、まあそれを聞いて頂こうと思います。
 まあ、またいわば私の懺悔話のようなことになりましょう。この、「神訓」という例えば字を今日のご理解風に解読致しますとね、いわば、カタカナのネを書いて、申すと書いてあるのが神という字ですかね。神という字。ネながら申すということになりましょう。ネ辺に申すと書いてある。それを、神訓の神と読む。訓という字は、言辺に川が書いてあります。言辺に三本。これは、川は流れる物ですから、言うた事、ね、言辺は言うた言。言うた事を流してしまうと。という風に私は今朝頂いたのです。まあ、例えて申しますとです、私がです、ね、私がまあいわば、楽から楽ばかりを求めて、いうなら、寝ながら申すということ。寝ながら、言うというかね、しておって、それを、信者が頂きとめるはずがない。私が言うた事は皆流してしまう。というのが言辺に川です。ね。
 いわば話す事、いわゆる、口ばっかり、言うばかり、口ばっかりの先生のところでは聞くばっかりの信者しか生まれてこない。昔に頂いたご理解ですけれどもね、どんなに話が名人と言われる程しの例えば先生でもお説教がうまいというてもです、自分自身が修行もせず、それを行にもしないで、どんなに素晴らしいことを言うて聞かせても、はあ、素晴らしい話だなと思うて、聞いて、聞くばっかりだと。ね。
 言うばっかり。ね。いわゆる口ばかり。口ばかりの先生のところには聞くばっかりの信者しか出来ないということです。これじゃおかげの頂けれるはずがありませんですよね。これはもう、私は人事のように思うておったのですけれども、人事じゃないなあ自分の事だなと、今朝は特にそれを痛感致します。ね。私自身がおかげを受けて、私自身が受けたおかげを皆さんに聞いてもらうというならば、実感と同時に皆さんにも伝わると思う。本当に伝わる。心のどこかに伝わる。その時には行じられなくても何時かは、これが、それこそ眠りながら聞いておっても、神様がそれを、もう、出し使うて下さるところが必ずある。
 神訓という事をいわば今日のご理解風に解読致しますと、ネ辺に申すと書いてあるのが、神という字。ね。訓と言う字は言うた事を流す、言辺に川と書いてある。私がいかに、どのような良いお話を致しましても、ね、私が寝ながらいうておったのでは、信者はそれを流してしまうだろう。そしたら何も残らない何もならないことになる。そういう元をやはり作っておるのは取次ぎ者、私であると言うことなんですよね。
 御神訓に、「我情我欲を離れて、真の道を知れよ」というのがございますね。信心の心得の一枚はぐった一番初めにありますよね。「我情我欲を離れて真の道」を知れよと。真の道を知るということのためにはね、私共は我情我欲を外すということに精進しなければなりません。ね。それが、外れるに、外れるに従って、真の道がだんだん、はあ、真の道とはという事を、これが真の道だなと思われる道にまあ辿りつく事が出来る。いよいよその我情我欲が無くなったらそこにはっきり、真の道を知ることが出来ることはいよいよ、「わが身は神徳の中に生かされてある」事が分かるのです。神徳の中に生かされておる、そこから神恩報謝の心、有り難い、ただ有り難いだけではなくて、それに報謝し奉らなければあいすまんという心も生まれてくるわけ。
 そこで私共はやはり、我情我欲を離れることに努めなければならん。我情我欲の意味が大変深くて広いですけれども、今日はまあ、私の懺悔話の中から、はあ、あれが我情だな我欲だなと言う風に思うて頂ければいいと思うのです。
 ここ二、三日私体が非常に体全体が非常にきつい。頭が痛い。それから足が痛い。膝頭がとても痛い。昨日も、ご無礼をして休ませて頂きましたが、但しあの、御祈念だけはさせてもらわなならんから、私は、四時前に起きてきて、家内に、「四時になったら起こしてくれ」と、言うて休みました。それで目が覚めましたらもう、すでに、四時二十分です。もうびっくりして起きてから、「もうあげん頼んどったつにどうして、起こしてくれなかったか」と家内に言いましたら、「起こしてくれち言いなさったですか」ち言いますもん。「私は、四時の御祈念仕えるち言うけんで、誰か仕えてくれち言いなさったつかと思うたけんで、私は御結界にそげんいうてから、頼んどきました」とこういう。もうすでに二十分送れておるわけです。まあこれは、言い違いか、聞き違いかそれはわからんけれども、家内責めるわけにはいけません。
 もう、二十分、そんならば、もう一時ばかり休ませてもらおうと思うて、休ませてもろうた。また。それがいけなかったのですよね。体が悪い事は神様もご承知。頭も痛いこともご承知。だから、休む事をどうと仰るわけじゃないだろうけれども、ならもう四時二十分に起きたのだから、そのまま、起きて御用でもさせて貰えばよかったのですけれども、そしたら、お夢を頂いたのです。もう、それこそ、恥ずかしい話。
 昨日私これは取り次がせて、取次ぎなんかさせ、取次ぎ者はここんところを一つ大いに心掛けておかなければいけんから、上野さんと、( ? )、御祈念の後にここから今日実はこういうようなお知らせを頂いて、神様は厳しいこういうことだったというて、もう、しかし、あんたどんだけばい信者に話される話じゃなかというて、私はあの二人に話しました。所が実際今日私が、ね、もう、どういう事を皆さんに聞いて頂こうかと思うたら、この、神訓とここんところだけしか頂かんですもん。
 そこで、神訓と言う字を解読させて頂いたら、寝ながら申した事はいくらいうたっちゃ信者は流してしまうと、こういう事になっているでしょうが。神と言う字を寝ながら申すと書いてあるでしょう。右に申す。訓と言う字は、言うた事を流すと書いてあるでしょう。川ですから。これは、やっぱり皆に懺悔しなければいかん。お詫びの印にでも、皆さんに聞いてもろうて、まあ、おかげを頂いてもらわなんじゃない、私がおかげを頂くかんならん。私が懺悔をしてそれをお詫びの印にして、私がおかげを頂かなければならないということなのです。ね。そのお夢というのがねこういうお夢なんですよ。
 ●私が久留米のまだ、光橋先生のおる時分のごたる風ですもん。光橋先生に電話をかけよる。ところが、あの昔の電話のあのジリジリ回すならんとですから、こう回してから、電話番号も調べとらんじゃったというと思うて、その、こうかんしに私が「久留米の光橋という陶器店、茶碗屋さんですかね、陶器店ですけれども、分からんでしょうか」と言ったら、「それは分かりますと。けれども、あの通話料、というでしょうかね、五十五円入れてください」とこう言われましたです。ところがその、五十五円と言う金は持たんのです。ね。気付かせて頂いたら椛目のもとのお広前なんです。おるところが。そこにその、何人もの人がもう、前後不覚に寝むっとる、そのなかにはっきり分かるのが、椛目の私の昔のいわゆる、門家にですね、ほとんど変らない方ですけれども、、宮崎力蔵さんという方がおられます。(  ?  )いわゆる中嶋さん達の叔父さんにあたられる方。それから、すぐ、たまもとなりに、自転車があったでしょう。あそこに、生野節男さんていう方なんです。その生野節男さんと宮崎力蔵さんがもう、前後不覚に眠っておる姿を、が、を見るのですよね。そのお夢の中に。
 もうその事からですね、私はそれこそ有る意味で愕然といたしました。というのは、光橋に私は電話をかけておる。実に怠慢のことですね。電話をかけるというのに、電話料も持たず、電話番号を調べずにまあ、分からんでも久留米の光橋陶器店というたら、分かったようなもんのいわば五十五円という、向こうに、言うてくださらなければついじゃくださらんとこういうのである。ね。ここでまた、いわば五十五円という事の解釈がいるですけれどもね、五十ということはね、これはあの、宗教の何ていうですか、極楽行きです。仏教で言うと。極楽行きに行くことなんです。あの(  ?  )と言いますでしょう、皆さんが。あれは極楽行きの稽古といわれております。まあ、ここでは皆極楽行きの稽古をしておるとでしょうが。これはもう信者それじゃない。この世で極楽を開こうというのがお道の信心ですもんね。この世で極楽を開いておかなければ、あの世に極楽はないと。 この世で極楽で開いておってこそそのまま、その、極楽、有りがたいというものをあちらに持って行くことが出来る、この世にも残しておけれるというのが、椛目の御信心です。そこで、皆さんはいわば、五十の稽古、いうならば、極楽行きの稽古を皆さんがしておられるという事なんです。そういう人達が合楽にご縁を頂いておると言う意味。五十五円ということ。
 ね。私はこじ付けた事いうけれども、決してそうじゃない。これは神様の言葉です。ね。人間に言葉があるようにも、神様にも神様言葉というものがある。ね。それを私が神様言葉を人間の分かりやすいように、解釈をいれておるだけのことですから、そのつもりで頂いてくださり。光橋というのは勿論光の橋です。ここの事。御結界のこと。氏子の世界と人間の世界、神様の世界を、結ぶ、いうならば、人間と神様の世界にかけられておるところの、橋なんだ。御結界というところは。この橋を渡らせてもらうから、ね、例えば人間が神様になっていけようかというのである。
 ね。神様の世界の事と氏子の世界の事と、取り結ぶ、これが光橋。光の橋なんだ。私は光橋というのはそういう事に頂いた。その光の橋がです、ね、ここで、皆さんが、五十行きの稽古をしておられるその方達が合楽にご縁を頂いたいうのが、五十五円と言う事。五十と言うことはそういう宗教のお互いが目指させてもらう、極楽行きの稽古をさせてもらう、極楽の行きの稽古をしておるという意味。ご縁というのはそういう、極楽行きの稽古を合楽でさせて頂いて、合楽にご縁を頂いておるということ。そういう人達がです、この光の橋をですね、渡ることが出来ない事になってしまう。ね。とうとう、( ? )。
 私はお金が無いもんですから。ね。次にその、宮崎力蔵さんと生野節男さんがそこに眠っておられるという事がです、これは決してご本人達の事ではなくて、宮崎力蔵というお名前、宮崎はあの、宮の宮でお宮さんの宮です。崎は崎。力蔵という。これは宮という宮崎ということの中から、神様という風に頂いて頂きたい。だんだん合楽で、おかげを頂いて信心の稽古をさせてもろうて、力蔵というのは力の蔵とかいてある。ならば、合楽で一生懸命信心の稽古をさせて頂いて、まあ、力も段々蓄えておる人達という意味なんです。まあいうなら皆さんたちのことだろうと思います。ね。
 次には生野節男というのは、生くと言う字は生まれるという世界であります。野はこの野原の野です。節男というのは節の男と書いてある。いうならばここでそれこそ、生野です。いわゆる生き生きとした信心をさせて頂いて、現在節に直面して折る人達が沢山いるということです。ね。あれほどしの生き生きとした信心をさせて頂きながら節に直面して節を乗り越えきらんでおる人達が沢山いるのです。もう一押し、もう一力というところで、合楽で一生懸命生き生きとした信心をさせて頂きながらまだ、いわゆるおかげに縁を頂いておらんという人達なんです。ね、その人達の為にでも私は一生懸命修行しなければならん。ね。そういう人達がです、「お前が寝とったらその人達も眠ってしまうぞ」という事でしょう。この二人が前後不覚に眠っておる。どんなに力のある者でもどんなに生き生きとした信心をしておっても眠っておっては始まりません。ね。それは私のいわゆる我情我欲です。今日。まちっと寝たいと思うたり、ね、寝た上にも寝ろうとする意欲というものがです、これでは真の道も分からんし、これではありがたいという心も生まれてくるはずがない。
 今は、おかげを頂きましてから昨夜から私は、もう、ただ今まで、お詫びの印に一睡もいたしませんでした。一睡もいたしませんでしたけれども、それだけでは詫びは許されんという感じ。これは皆さんにこれを聞いてもらわなければ懺悔をしなければ許されるという感じが致しましたから、今日は皆さんに聞いて頂いたんです。夕べまではこれは取り次ぎにたちさわるあんた達にしか話さんというて(?)言うたことを今日は皆さんに聞いてもらったわけです。それもいわば「神訓」という事をここのところだけを頂いたからです。ね。又、これをひっくり返してね、これを皆さんの立場でこれを頂くというなら、まあ御理解になるかもしれませんですね。これはどこまでも今日のことは私の懺悔です。その懺悔によって私自身た助からなければ折角ここに光の橋があるのに、光の橋をです、いわゆる光の橋どころか、真っ暗いいわば、ね、闇のような橋にしなければならん。皆さんが、この橋を渡ることが出来ない。助かってもらう事が出来ない。それでは私はもう御用済みであり、私はお役に立たないことになる。これは私が皆さんに聞いてもろうて私自身が助からなければならない。
 まあ今日のお話の中から色々とまあ、私の話だけれどもその話の中から、五十五円の話やらを一つ、思うてみて頂いて、ね、まあ言うなら今日の御理解(?)ばです、果たして自分は合楽にこうやって一生懸命お参りしよるが、果たして自分は五十を求めて御縁を頂いておるだろかと、本当の意味においての心の中に極楽を求めての信心であるだろうかと、まあ皆さんが自問自答されるなら、これは今日のお話は私の懺悔話というだけではなくて、それだけでも御理解になるだろうと思いますね。
                                   どうぞ


                                    松本正宏